SSブログ

エゼキエル書から「復活」思想をひも解く [最後の審判]

『エゼキエル書』は旧約聖書の三大予言書の1つです。エゼキエル自身は紀元前6世紀の予言者で、当時、占領されていたエルサレム再建のために活躍したことから”ユダヤ教の父”とも呼ばれています。この書簡の記述に復活思想が詳しく記されています。
エゼキエルは神に連れられ、異教徒との戦いに敗れたユダヤ戦士の遺骨の谷に降ろされます。神はエゼキエルに向かって骨へ次のように語れと命じます。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返るであろう。お前たちに筋をつけ、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込むのだ。さすればお前たちは生き返り、私が主であることを知るであろう」
エゼキエルが神の言われたままに話すと、骨と骨が接合し、筋と肉ができ、皮膚が覆ったのです。そこでエゼキエルは主から言われた2番目の言葉を唱えます。
「主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。これらの殺された者たちの上に吹きつけよ」
すると死人が起き上がり、故郷たるエルサレム(楽園)に帰っていったと言われています。
このことから、ユダヤの人々は、その教義において霊魂の重要性を説いていると考えられます。肉体にはあまり執着しておらず、魂自体が永遠不滅であるという考えがあるような気がします。
人が死ぬとその霊魂は別の世界に棲むようになります。この考えは日本でも西洋でも変わらないと思います。そこで生前の家族や友人と対面するわけです。また日本では守護霊という考え方があります。先祖の霊が生きている子孫を守る役割をしているというものです。日本の場合は先祖供養を非常に重視します。それは死後に再会するであろうし、また生きている間は守ってくれる先祖を大切にせよ、という思想であもあります。
人間にとってはいたって自然の感覚の先祖崇拝ですが、一神教であるユダヤ教・イスラム教・キリスト教にとっては都合が悪いのも確かです。神は唯一のはずですから、他の霊的なものへの信仰はご法度なわけです。
またユダヤ民族は国家を持たない(当時はエルサレムがあったのでしょうが・・他国から侵略されることも繰り返されています)ので、一致団結して民族としての結集力を促すには、神はヤーウェ1人の方が都合が良いでしょう。主なる神の命による、の一言で団結するのですから。
唯一絶対神の信仰においては、先祖崇拝は邪魔であり、背教行為にほかなりません。そのためこれらの教義では先祖崇拝は禁止され、死者への祭儀は簡潔質素になったと考えられます。土によって造られたのだから土に返るわけです。
しかし、人間にとって「死」は避けられない永遠のテーマです。
「死」は生きている時の努力を全てリセットされるとしたら、やる気も失せてしまうのが人情です。そこで霊魂不滅の思想が導入されることになります。そして霊魂が不滅であるが、死者は復権する資格がないのかということになります。その問にたいして「最後の審判」が考えだされたのではないかと思います。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 1

某ドカタ


Hしてお金もらえるって最高だな!!!!
ぶっちゃけテキトーにやっても月30万越えとか余裕だし(笑)

もう仕事辞めて、これ一本で食ってくわ!!!!(* ̄ー ̄)v
http://c1qgp5e.fukushima.coresy.net/c1qgp5e/
by 某ドカタ (2011-04-03 07:47) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。